北山一揆(きたやまいっき)とは、天正年間(1573~93)、慶長年間(1596~1615)に計2度、発生した奥熊野の地侍を中心とした一揆です。現在の三重県、和歌山県の境あたりの場所で起きた一揆で、史跡が点在しています。
天正の古戦場:和田堤
北山とは当時、この地方を治めていた和歌山県新宮から北にある山岳地帯。現在の北山村、熊野一帯です。豊臣秀吉の太閤検地に反発した北山の農民約3,000人が一揆を起こし、この付近の山に立て籠りました。しかし当時の領主・羽柴秀長(秀吉の弟)の軍に攻められ、この大又川の和田堤周辺で多くが戦死しましたといわれています。
和田堤には北山一揆で亡くなった人の供養塔があり、今でも地元の方々によって維持されています。
かつては血で染まったであろう和田堤の東を流れる大又川の水は澄んでおり、川底までハッキリと見えます。
慶長の古戦場:大沼
関ヶ原合戦後、徳川家康が江戸幕府を開いた慶長年間にも一揆がおきました。この時は新宮城主・浅野氏が一揆鎮圧に出陣しています。
北山一揆史跡(北山村大沼)
あなたが立っている足もと下方の北山河川岸にみえる大きな岩が百貫嶋である。慶長十九年(1614)十二月二十七日、この嶋をはさんで対岸に新宮城主・浅野軍が、こちらの岸辺に一揆方が布陣して戦った。
一揆方は十二月十二日新宮城を攻め落とすため、鮒田(ふなだ:紀宝町)まで押し寄せたが、浅野軍のため敗走し、ここ大沼に背水の陣を布き抵抗した。
しかし熊沢兵庫らに敗れ四散した。この一揆参加者のうち六三六人が処刑された。一揆以来、一基の供養塔もなかったが、昭和四十七年有志により、天正・慶長の犠牲者のため田平子峠(紀和町)に供養塔が立てられた。
一揆の原因については諸説あるが、新宮城主・浅野氏の検知(慶長六年:1601)で年貢制が改悪されたことが主たるものである。
現地看板より
案内看板の対岸には百貫嶋と呼ばれる大きな石があるそうですが、複数あってどれが百貫嶋なのかよくわかりません。
田平子峠処刑場
一揆は各地で鎮圧され、それぞれ地元で死者を出していますが、主だった主導者たちは捕らえられ、この田平子峠で処刑されたといわれます。この田平子峠は旧街道沿いにあり、見せしめのためにこの地で処刑を行ったのでしょう。一揆鎮圧の拠点として藤堂高虎が築いたといわれる赤木城から1.3kmほどの場所にあります。(車だと所要時間は5分ほど)。
私の感想
北山一揆関連史跡は三重県熊野市と和歌山県境に点在していました。私が今回訪れた3つの史跡は赤木城(続日本100名城)とセットで巡りましたが、車が無いと1日で巡るのは難しいと思います。