三重県伊賀市の百地丹波守城趾(百地砦)は、この地に勢力をもっていた土豪・百地氏の屋敷跡です。NHK大河ドラマ・どうする家康で、伊賀越えをする徳川家康を苦しめた百地丹波守(演・嶋田久作)。実在した人物で、天正伊賀の乱で活躍しています。
百地丹波守砦跡由来記
戦国期(1500~1600)に伊賀忍者の二大巨頭の一人として鞆田村の藤林長門守に拮抗して南伊賀に勢力を張っていた伊賀流上忍百地丹波守はこの地を根拠地としていた四囲の土壁は天然地形に若干の人工を施しているが天然密室を形造っている。壁内の廣さは約三百坪、この中に三太夫の館はもとより忍者の集会所家人どもの住居もびっしりと建てられていたのだ。
天正九年(1581)伊賀の乱(織田信長の伊賀攻略戦その時百地丹波守は最後にはその分城近くにある名張郡柏原村のとりでに籠り城開城とともに行方不明になっている)の際自ら焼き放ったものと考えられるが今は全く跡形もなくなっている。
砦の近所の百地家菩提寺青雲禅寺には喰代百地家代々の墓がある外、本覚了誓禅門の名をのこす過去帳があり藤林と百地は同一人ではないかと言う疑いを濃くしている。
縄張り図
百地砦跡は、百地丹波守の居城と伝えられています。百地氏は、天文十三年(1544)の資料に『喰う代もも地殿』と見え、戦国時代には有力な土豪として知られていたようです。この城跡は、東西約250m、南北約60mで、市内でも有数の規模のものです。城跡の構造は、丘陵尾根を削平して造った四つの郭を連ねて配置しています。この中で郭Cは約70m×約40mと最も大きく、三方に土塁を築いているほか、南側に自然地形を利用した堀、東側に堀切があります。また、周囲に小さい郭を設け、郭Cへの進入路を屈折させるなど、防御のための工夫を凝らしていることから、城跡の中心部分と考えられます。
主郭を巡る土塁は、北側と西側の土塁の外側は崩れが著しく、工事により保護されていますが、内側は残りがよく、当時の様子をうかがうことができます。東側の土塁は主郭の中でも最も高く、頂部が広くなっていることから、かつては見張り台のようなものがあったと考えられます。また、南側の土塁は他と比べて低いことから、当時は土塀があったのかもしれません。(現地看板より)
そして城内
まずは百地城周辺の地図。青雲寺と永保寺の奥に城趾があります。
普通に侵入すると道が丸くなっており、曲輪から側面攻撃を受けながら進む様になっています。その先には門があって、門を壊している時も横からの攻撃を受けなければなりません。
三重県 #伊賀市 に残る百地砦。伊賀の上忍だった #百地丹波守(ももち たんばのかみ)の屋敷跡。大河ドラマ・ #どうする家康 では、#本能寺の変 後、#伊賀越え をする家康を捕らえ苦しめる百地丹波守を #嶋田久作 さんが演じました。… pic.twitter.com/96jLdLcqX5
— 愛知戦国史跡ナビゲ-タ-・みかわのひで (@mikawanohide) January 16, 2025
城内にはいくつかの曲輪が良好に残っています。かつては建物があったのでしょう。
曲輪と曲輪の間にある空堀。ひとつの曲輪を突破して次の曲輪に行こうとしても、ここに落ちてしまいます。その時に攻撃を受けるのです。
本丸の周辺にもうっすらと土塁が残っています。当時はもっと高かったのでしょう。
↑個人的に気になったのが、青雲寺と永保寺の間にある丸形池。ここを水堀と考えると、隣の空堀との間にある道が土橋に見えてしまいます。
ちなみに青雲寺も百地砦の曲輪のひとつです。墓所にはこの地に根付く百地家代々の墓がありました。
所要時間と私の感想
百地城(砦跡)の所要時間はジックリ巡って1時間ほど。サラッと巡れば30分でしょう。私の感想ですが、ホントの忍者屋敷跡ということでしたが、周辺には堀、土塁、虎口などまさに城の遺構がたくさんあり、なおかつ保存状態も良かったので満足です。日本100名城の伊賀上野城、また天正伊賀の乱で落ちた織田信雄の伊賀丸山城とセットで訪れるのもよいですね。