天正伊賀の乱で織田信雄が築いた伊賀市丸山城址と忍者の本陣だった無量寿福寺

天正六年(1578)、伊賀国を攻めるために織田信雄(織田信長の次男)が丸山城の築城を始めました。これが完成すると織田家による伊賀攻めの本拠地になるため、伊賀の土豪(忍者)たちは本陣とする無量寿福寺に集結します。ここに第一次天正伊賀の乱が勃発しました。

土豪(忍者)たちは、丸山城が築城途中で夜襲をかけ、一晩で落城させたといわれます。これは令和六年(2024)にNHK・歴史探偵でも取り上げられ話題になりました。今回は織田信雄の丸山城址と忍者たちの本陣・無量寿福寺を実際に訪れてみました。

丸山城址

伊賀丸山城址は現在山の中で、登城口がいくつかあります。私は丸山公民館側からのぼりました。

これが現地看板にある丸山城址の縄張図。山の地形を利用して作られたもので、出丸(出曲輪)みたいな離れた場所にも城域がありました。

本丸には石碑が建立されており、簡単な説明看板もあります。

丸山城跡

丸山城跡は、東西約400m、南北約450mで伊賀最大級の規模を誇り、丘陵全体に大小の曲輪を配置しています。天正六年(1578)に織田信雄の家臣・滝川三郎兵衛が築き、同年に伊賀衆の攻撃で落城したとされています。城跡の中央にある天守台の周辺には、石材が散乱し往時に石垣が築かれていたことがうかがえます。屈曲した入口の構造や石垣など、伊賀には珍しい織豊系城郭の特徴を見ることができます。

伊賀市

案内看板にある様に本丸周辺に散乱している石がありました。石垣の石なのでしょう。

本丸下に現代の墓みたいなものがあります。よく見てみると天正伊賀の乱で亡くなった方の供養塔でした。伝承によると築城途中の丸山城は、伊賀の土豪(忍者)から夜襲をかけられて、一晩で落城したといわれています。戦死者の数は伝わっていませんが、多くの方が亡くなったのでしょう。

防御の工夫

丸山城址を散策してみると、城の遺構みたいなものがチラホラ残っています。たとえばこれは曲輪から側面攻撃をする横矢掛けのしくみ。

また丸山城址周辺を比自岐川が取り巻くように流れています。これは自然の川の流れでしょう。まるで丸山城を取り巻く天然の堀みたいです。

対戦相手の本陣

織田信雄の丸山城の向かいにあった無量寿福寺は、伊賀の土豪(忍者)の本陣になりました。忍者たちはここで丸山城が完成する前に落とす方法を話し合っていたといわれています。そしてここを本陣として丸山城を攻めました。

忍者たちの本陣だった無量寿福寺は、第一次天正伊賀の乱では勝利したのですが、その後、織田信長自ら出陣した第二次で焼き払われました。現在は再建された様子。

>>無量寿福寺の地図

無量寿福寺から丸山城を望むとこんな感じです。丸見えですね。今では森みたいになっていますが、当時は築城途中の城なので木々は無く、築かれる工事がここから丸見えでした。日々、完成していく丸山城を見ていた忍者は危機感を覚え、丸山城攻めを決断したのでしょう。

所要時間と私の感想

丸山城の所要時間は約1時間、無量寿福寺の所要時間は約15分でした。私の感想ですが、天正六年(1578)に起こった第一次天正伊賀の乱の現場を巡ることができて良かったです。また丸山城址と無量福寿寺も近く、臨場感を味わえました。

丸山城址は森の中なので、夏はちょっとキビしいかもしれません。私みたいに冬に訪れると草木も生い茂っておらず、虫も少ないのでオススメだと思います。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする