賤ヶ岳の合戦は本能寺の変で信長が討たれた後、羽柴秀吉と柴田勝家が戦った戦です。そのときに活躍したのが【賤ヶ岳七本槍】と呼ばれる7人の武将。そのメンバーが以下の7人です
- 福島正則
- 加藤清正
- 加藤嘉明
- 脇坂安治
- 平野長泰
- 糟屋武則
- 片桐且元
彼らは秀吉の馬廻衆という近習で、柴田勢の先鋒である佐久間盛政・柴田勝政隊を切り崩しました。ただ、この七本槍、最初は九本槍だったとか。どういうことか?最初合戦では、上記のメンバー意外にこの二名がいたとか。
- 石川一光
- 桜井家一
しかし石川一光は賤ヶ岳合戦で討ち死にしてしまい、ロゴがよかったのか?【7本槍】にまとめられたそうです。
石川一光(いしかわ かずみつ)
美濃鏡島城(岐阜県岐阜市鏡島)主・石川光政の弟。賤ヶ岳の戦いで一番槍として突入し、賤ヶ岳の七本槍に並ぶ戦功といわれたが、拝郷五左衛門に討たれた。合戦後、弟に対し兄の代わりに一番槍の感状と1千石が与えられた。
桜井家一(さくらい いえかず)
秀吉子飼衆の一人で秀吉の命により秀長に仕えた。賤ヶ岳の戦いでは一番鎗の戦功を立て、丹波国内に3千石の俸禄を与えられた。天正十九年(1591)に秀長が没すると養子の秀保に仕え、その秀保も文禄四年(1595)に亡くなると再び秀吉に仕えた。翌年死去。
しかしまとめられたのはよいのですが、本人達はあまりよく思っていなかったらしく、福島正則は脇坂安治と同列にされるのは迷惑だと言ったとか。加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌ったなどの逸話が伝えられています。
まあ、関ヶ原合戦でもこの7本槍達は、西軍・東軍に分かれて戦っていますし、あまり仲がよかったわけではなかったようですね。しかし最初は七本槍ではなく九本槍。意外なマメ知識でした。