大名が炭の専売で経済活動をしていた痕跡!和歌山県新宮城址の水ノ手とは

和歌山県新宮市の新宮城址に全国の城でも珍しい遺構があります。それが水ノ手です。ここは熊野川から運ばれる物資を城内に水揚げする場所。しかしそれだけではなく、備長炭を備蓄する倉庫群の跡が見つかりました。

ここに倉庫があった理由

水ノ手(みずのて)

熊野川に面した水ノ手は、幕府が諸藩に命じて提出させた『正保城絵図 紀伊国新宮城之図』(しょうほのしろえず きいのくにしんぐうじょうのず)(1644~54年頃)にも描かれており、築城当初から新宮城の重要な施設として機能していたと考えられます。

ここからは平成6年(1994)の発掘調査で、多数の礎石建物跡が発見されました。建物跡の床面には、砂利が敷かれ炭の粉が蓄積していたことから、これらは1万俵もの炭俵が収納可能な炭納屋群(すみなやぐん)と想定されました。城内消費用としては多すぎるため、熊野川流域の新宮炭(備長炭)を専売していた新宮城主水野氏の体外的な経済活動用の施設であると考えられています。

このような城内での経済施設の発見は全国的にも例がなく、ここは近世城郭の経済的側面を実証するものとして、極めて重要な場所であると言えます。

現地看板より

炭の売買は普通、商人が行うものというイメージがありますが、紀伊新宮藩では藩の専売になっていました。これに似た事例は多くあります。例えば私が住んでいる愛知県三河地方は、西尾藩が地元から採れる雲母(うんも)を民間から藩の専売に変えたことがあります。ウラを返すとそれだけ需要があり儲かったのでしょう。

そして現地

平成6年(1994)に炭納屋の遺構が発見され、平成十五年(2003)に国指定史跡へ。その後も調査が進められ、水ノ手の全容もわかりました。

個人的に感動したのは今でも地表面に出ている石垣。なぜかというと部分の補修はされていますが、多くが当時(江戸時代)の石垣だからです。おそらくここには水門みたいな物があり、物資を引き上げるときには開けられ、敵の来襲も想定されることから有事の際には閉まる様になっていたのでしょう。


水門は他にもある

川から物資を城内に引き上げる水門は他にも事例があります。例えば愛知県豊橋市の吉田城址(続日本100名城)も北を流れる豊川から物資を引き上げる水門の跡が残っています。現在は豊橋市役所の敷地で門も閉じられていますが、両脇の石垣は当時(江戸時代)のものです。

私の感想

私の新宮城址の水ノ手の感想ですが、水門の石垣も残り珍しい遺構だと思います。また備長炭は当時から手焼きで手間暇かかるものですが、くらしに欠かせないものなので十分な需要があったのでしょう。

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