明智光秀には側室がいた!義弟・明智孫十郎直経の墓がある岐阜県山県市

岐阜県山県市には明智光秀の義弟・明智孫十郎直経(あけち まごじゅうろう なおつね)の墓があります。義弟なので煕子さん(正室)の兄弟かと思いきや、なんと側室の妹のダンナでした。明智光秀に側室がいた事自体、驚きですが明智孫十郎直経とはどんな人物なのか?現地で調べてみました。

>>明智直経の墓の地図

現地

現地案内看板には次のように書いてありました。

明智孫十郎の墓

戦国時代から安土桃山の武将、大名。

元々恩田孫十郎という名でこの地に生まれ、最初は美濃国守護の土岐頼芸(とき よりのり)に仕えた。恩田孫十郎十八の時、斎藤道三による大桑城攻が行われ孫十郎が決死隊を組み、四国山城(大桑城への兵糧入れを防ぐために作らせた城)を奇襲し、城を落とし兵糧を確保したと言われる。その時の武功で、山県郡内二ヶ所と土岐の鷹とよばれる絵を拝領した。

孫十郎は光秀の側室の妹を正室にもっていたことから『義弟・明智孫十郎直経』と名乗り、長年光秀の与力として活躍し、亀山一万に千石の扶持を賜る。

やがて先峰の一角として本能寺の変に攻め入り、信長が自害後はそのまま二条城に転戦。信長の嫡男・信忠を打つべく突入し、光秀の恩義に報いる時は今と奮戦。しかし二条城にて戦死。享年四十二歳。

(参考文大村由己 『大正記』『惟任退治記』)

大桑城の活躍は父親だった可能性

大桑城での活躍ですが、孫十郎直経ではなく父の直實(なおざね)ではないかという指摘があります。その根拠は斎藤道三が大桑城を包囲したのは天文十一年(1542)もしくは天文十六年(1547)であり、天正十年(1582)に42歳で亡くなった直経の年齢を逆算すると1歳か5歳のときの話になるので、決死隊がどうのというのはさすがに無理です。そこで史実の話だとしても直経の父・恩田孫十郎直實(なおざね)ではないかといわれています。

私の感想ですが、光秀に側室がいたこと自体が驚きですが、世に知られていない明智孫十郎直経という武将を知ることができて良かったです。この近くには明智光秀の生誕地と桔梗塚と呼ばれる墓もあるのでセットで訪れてみましょう。

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