滋賀県竹生島の宝物館は戦国好きにオススメなのか?見どころと私の感想

滋賀県竹生島の宝物館は島の拝観料とは別に300円必要です。中は撮影禁止で30品前後の展示品があります。私の感想ですが、戦国時代が好きな方は中もチェックしておくことをおすすめします。その理由はここでしか見ることができないからです。中は撮影禁止なので、私的に気になったものを解説でリストアップしてみます。

●大太刀(おおたち) 室町時代後期

『嶋孝道』なる人物が妖魔退散と祈願して竹生島弁財天の宝前に寄進した大太刀。寄進者の嶋孝道は、判然としないが、戦国時代坂田郡飯村(現 米原市飯)の土豪嶋氏に関係があるかもしれない。この大太刀は3尺3寸に及ぶ太刀として湖北に伝在する唯一のもので、滋賀県内でも屈指の優品である。

●弁財天坐像(べんざいてんざぞう) 永禄九年(1566)

浅井亮政(浅井長政の祖父)の側室であり久政の生母である寿松が、蓮華会の頭役を受けた際に奉納した弁財天像。寿松は永禄六年(1563)、島に『鉄釣灯籠(てつつりとうろう)』を奉納永禄十年(1567)には榑(くれ)50丁を亮政の正室である蔵屋と共に寄進するなど竹生島への厚い信仰心を持っていた人物である。確認できる中では、蓮華会史上唯一の女性頭人である。

●片桐且元建立棟札 慶長八年(1603)

豊臣秀頼によって再興された建造物の棟札の一つ。棟札から、秀頼の寺社復興事業の半数に関わった片桐且元が、竹生島の慶弔造影においても奉行を務めたことが判明する。また従来から竹生島の大工・阿部権守(あべごんのかみ)と西嶋但馬が再建時にも実質的な作業を行ったことがわかる。

●弁天堂棟札 慶長七年(1602)

永禄元年(1558)の火災で焼失した島の伽藍の内、最重要施設である弁天堂は永禄十年(1567)に再建された。さらのその40年後の豊臣秀頼による伽藍復興事業では、地元浅井郡出身の武将 片桐且元が普請奉行として竹生島の伽藍復興に尽力した。

●豊臣秀頼建立棟札 慶長七年(1602)

豊臣秀頼による伽藍復興の棟札。上棟日から観音堂の棟札と考えられる。淀殿と秀頼の寺社への復興への帰依は厚く、秀頼による寺社復興事業は、機内を中心に多数行われた。とりわけ淀殿にとって故郷の地にある竹生島の復興は特別な思いがあったであろう。竹生島の復興事業は、豊臣秀吉の廟である京都の豊国廟の建造物を移築する形で実施された。

●羽柴秀吉書状 天正二年(1574)

浅井長政が竹生島に預けていた材木を引き渡すよう、秀吉が島に対して要求した文書。長浜城築城の材として用いるために大量の材木が必要であったのであろう。『手抜かりがある場合、罰を下す』と強く要求している。築城にかける秀吉の強い意気込みを感じる。しかし秀吉の竹生島に対する敬意を感じ取ることはできない。

●竹生島奉加帳 天正四年~十六(1576~88)

長浜在城時代の羽柴秀吉が、米100石を寄進したことにはじまり、秀吉の家族・家臣たちが銭・米・諸物を寄進したことを記した奉加帳(ほうがちょう)。永禄元年(1558)の竹生島の大火災以降、戦乱の時代ということもあって、遅々として伽藍再興が進まない中、これらの奉加は島の復興を援助するためのものであった。

●和歌色紙 (伝 淀殿筆)

浅井三姉妹の長女・淀殿(茶々)が和歌を記した色紙として竹生島に伝来した。色紙の画表現などから淀殿筆とは考えにくいが、竹生島と浅井三姉妹との深い由緒があるからこそ、こうした自伝となったのであろう。

浅井亮政(長政の祖父)から豊臣秀頼の母・淀殿まで幅広い時代の展示物が興味深かったです。この宝物館を訪れても竹生島の所要時間90分はオーバーしなかったので、戦国好きの方はぜひ、チェックしてみてください。

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