【浜松城レビュー6/8】
浜松城に行った時、多くの人は浜松城天守に登って、それなりに満足して帰ります。
でも歴史ファンや城マニアは、もう1歩踏み込んだ史跡をチェックしてみましょう。
それが浜松城の前身の城・曳馬(ひくま)城です。
浜松城の無料駐車場の目の前にあるので、ここも徒歩で十分にセットにできます。
曳馬城は資料によって、引馬城、引間城とも記載されていますが、今回のレビューでは曳馬城で統一しますね。
さて曳馬城の築城は15世紀頃といわれていますが、誰が築城したのかハッキリわかっていません。
戦国時代、この周辺が今川領だった頃、今川氏家臣の飯尾氏が城主だったといいます。
桶狭間合戦後の元亀元年(1570)、徳川家康が曳馬城に入城して、曳馬城を大改修して浜松城とし、以後、この周辺を治めるための居城としました。
ここで注意したいのは、曳馬城は浜松城として大きく改修されてしまいましたが、それ以後も浜松城の一部(曲輪)として活用されました。
浜松城の案内看板。
よく見ると赤い点線で囲んだ部分が、かつての曳馬城で、浜松城二の丸の先にある出曲輪みたいになっています。
これによく似た事例に愛知県名古屋市の名古屋城があります。
名古屋城も実は、ある日突然ポン!と築かれたのではなく、那古野城(なごやじょう)という城を大改修して名古屋城にしています。
ちなみにこの那古野城は織田信長の生誕地説が残る城なのです。
でも那古野城の場合、完全に名古屋城に取りこまれ、遺構はよく分からないのですが、浜松城の場合、曳馬城はその一部として現在でも確認できるんですね。
ということで早速チェックしてみます。
曳馬城の本丸と考えられる場所は、現在神社になっていますが、その神社のすぐ側が堀みたいに狭く深くなっています。
ここが絵図に描かれていた堀跡でしょう。
そして境内。
本殿の裏側に低いですが土塁みたいなものも、うっすら残っていました。
さて、曳馬城の遺構はこれくらいですが、境内をよく見てみると…
なにやら銅像が建っています。
台座をよく見てみると、ひとりは徳川家康、もうひとりは…
豊臣秀吉!なぜ浜松に秀吉がいるのか?実は浜松は秀吉ゆかりの地でもあるんです。
↑まずは徳川家康。
この人は別に説明の必要はありませんよね。
浜松城を築城したでもあり、城主でもあります。
問題はこの人、秀吉さん。
でもよく見ると、若い?
【太閤素性記】によると、秀吉は少年時代、日吉丸と名乗り、生誕地である尾張(愛知県西部)から東へ向けて針の行商をしていました。
行商ついでに出世の糸口を探していたんですね。
そして浜松の馬込川(まごめがわ)のほとりで、この地の豪族・松下嘉兵衛に出合い、曳馬城まで連れてこられました。
曳馬城主・飯尾氏の宴会の席で猿のマネをし、栗を食べてみせたことがウケたらしく、松下家への武家奉公が叶ったのです。
歴史を見てみると、その後、秀吉は松下家から離れ、尾張の織田信長に仕える訳ですが…
ということで浜松は、百姓だった秀吉が、はじめて武家奉公ができた出世の始まりの街ということで、ここに銅像が建立されています。
その後、秀吉と家康は1度だけ小牧・長久手合戦で戦っていますが、その2人ゆかりの地が浜松という訳ですね。
曳馬城に来た時は、この銅像もチェックしておきましょう!
曳馬城の住所
静岡県浜松市中区元城町111−2
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【4】浜松駅からバスで浜松城へのアクセス方法と入場料金、割引
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