明智光秀は生きていた!岐阜県山県市に残る光秀の生誕地と墓に行ってみた感想

岐阜県山県市には明智光秀の生誕地と墓が残る場所があります。それが岐阜県山県市中洞の桔梗塚です。天正十年(1582)の山崎の合戦で討たれた光秀がなぜこの地に墓があるのか?実際に現地に行ってみました。

>>桔梗塚の場所の地図

地元に伝わるハナシ

地元の伝承は以下のとおりです。

●天正十年(1582)山崎の合戦後で討死したのは影武者・荒木山城守行信だった
●光秀は荒深小五郎と名乗りひっそりと暮らしていた
●その後、雲水の姿で諸国遍歴
●慶長五年(1600)関ヶ原合戦で東軍に味方するために村を出たが事故に遭い溺死
遺骸は故郷であるこの地に埋葬された

またこの地には荒深さんが多く年2回の供養祭も行っているそうな。

光秀の産湯井戸

明智光秀の産湯をとったといわれる井戸。まさに生誕地ならではの史跡です。

そして墓

光秀の墓もここにありました。関ケ原の戦いに東軍として参加するために出陣した光秀は川で溺れて亡くなり、この地に埋葬されたそうな。

私の感想ですが、明智光秀の生誕地説はいくつかあり、山崎の戦い後も生き延びた説がいくつかあります。伝承といえばそれまでかもしれませんが、歴史の常識が覆る昨今なので、もしかすると岐阜県山県市の生誕地、そして墓も通説になるかもしれません。

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